戸次 鑑 連。 立花山城の歴史について!立花道雪と誾千代の居城を登る【福岡の旅】

立花山城の歴史について!立花道雪と誾千代の居城を登る【福岡の旅】

しかしその一方で、中国地方では安芸のが主家である大内氏からの独立を果たし勢力を拡大しており、弘治3年(1557年)には大内義長を自害に追い込んで周防・長門をも手中に収めるに至っていた。 宗麟は家老の戸次道雪に立花氏の名跡を、同じく家老のの次男・に高橋氏の名跡をそれぞれ継がせ、両名を筑前の抑えとする事で支配体制の盤石化を図っている。 伯耆守、伯耆入道などを称した。 1569年、大友軍5万は残る龍造寺家の討伐に赴いた。 立花宗茂安堵状 渡辺家史料(柳川古文書館蔵) 377• どうもの使い方ではなく、小さな弾丸をたくさん込めて榴弾のような使い方をしたらしい。

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戸次鑑連 (べっきあきつら)とは【ピクシブ百科事典】

大将の種実も城内の混乱を収拾しきれず、こうとなっては秀吉に降参せざるを得なかった。 話を聞いた宗麟が道雪の家を訪ねると、道雪は「たとえ折檻を受けても、主君の過ちを正すのが家臣の勤めである。 一夜明けて古処山城から覗いてみると、そこには驚愕の光景が広がっていた。 204• 第II部• (、十時連貞、安東忠、)• 宋雲院肖像 天叟寺蔵 222• コラム 「天草・島原の乱と立花家臣」 344• (統虎は後の立花宗茂である) 1578年、宗麟は道雪の反対を押し切り島津家の討伐を命じたが、道雪を欠いた大友軍は耳川の戦いで大敗を喫し、多くの重臣を失った。 戸次鑑連書状 小野文書(柳川古文書館寄託) 35• 門司城の戦いの経過については、『九州軍記』・『九州治乱記』・『九州諸将軍記』・『歴代鎮西要略』・ 『陰徳太平記』・ 『吉田物語』・などによるのだが、信憑性に疑問符を付く軍記物によって諸書記載の合戦年月日の異同があり、永祿5年(1562年)10月13日柳ヶ浦の戦いや永禄4年(1561年)10月26日門司城下の戦いを混同する可能性があるかもしれません。 コラム 「「立花」苗字の家臣達」 236• 117• 表六 立花家の臨時支出 286• 1550年2月、二階崩れの変(にかいくずれのへん)となり、津久見美作、田口鑑親(田口新蔵人、田口蔵人佐 ら大友家の重臣が、大友館の2階で就寝していた20代当主・大友義鑑と、3男・塩市丸、その生母 側室 を襲撃。

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休松の戦い/福岡史伝 -福岡の歴史をかんたん解説-

弟にらが、子に、らがいる。 図14 天皇略系図 294• 戸次鑑連(べっき・あきつら) 豊後の人(1513~1585) 大友家の重臣にして戦国屈指の名将。 大友家の新しい当主・義鑑(よしあき)の覚えもよく、常勝を続けて所領を拡大していく。 豊臣期における年貢・夫役のシステム 147• 薦野増時は才能豊かな人物で道雪は彼にかなり惚れ込み婿養子に入れ家督を譲ろうとしました。 家臣団の再編成 250• 雷切丸 立花家史料館蔵• コラム• 「 勇将の下に弱卒無し」をモットーとして戦う、これは言葉通りに取ると「 大将が強ければ下の兵士が弱い訳は無い」となるがそうではない。

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戸次鑑連とは (ベツキアキツラとは) [単語記事]

西洋医学も積極的に導入して病院を建て、領内の医療水準を高めた。 2020-08-31 12:54:02• 文化的な活動も旺盛であり、中央より絵師や歌人を多数領内に招き、隠居後も茶器や書画の蒐集に余念がなかったと伝わる。 天文20年()、が重臣の謀反()によって自害した。 事を知った戸次鑑連(立花道雪)は追手を差し向け、助命を請う臣に放った言葉。 とくに勇猛で知られる戸次軍の圧迫は凄まじいものがあったが、種実率いる秋月軍も負けてはいない。 また、火器のに必須である火(のである硝石)を輸入していたという重な記録も、同じく宣の記録に残っている。

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戸次の鬼姫~立花誾千代異譚~(komorebi)

。 愛刀・千鳥には雷に当たった印があったために、それから愛刀を「 雷切」と呼んだ。 大友義鎮は、永禄5年6月15日から宗麟の署名を用い、10月17日から宗麟に統一した。 このふたりの睦まじさも本書の見どころです。 の後継者争いによる「崩れの変」がおきると、側に立った戸次鑑連(立花道雪)は、嫡を画策したのである入田親を成敗し、けじめをつける為に妻とも離縁した。

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立花氏 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

大友方が守るも先に9月頃に攻略したと思われる。 新たな支城配置と領内の寺社 139• ちょうど同じ頃にの親の妻も男子を出産したが、民間信仰で「嫌年の子」とされる不吉な時期に生まれたので養子出す必要があり、交換したのだという。 おわりに 戦をした敵将たちは「 立花道雪は素晴らしい武将だ」と絶賛した。 その名将ぶりは遠く甲斐の武田信玄にも届き、信玄は屏風に鑑連と勇猛で知られるその家臣・由布惟信(ゆふ・これのぶ)の名を記し、面会を願ったという。 2020-08-31 13:59:18• 道雪は「遺体に甲冑を着け、高良山の好己岳に、柳川の方を向けて埋めよ。 大友方の城が、内紛によって大友軍に落とされるよう導く謀略である。

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雷切 (らいきり)とは【ピクシブ百科事典】

表十五 知行地の変化 355• 152• そもそも今度、義長不慮 成行 ( なりゆき )のこと、 朦気 ( もうき )御賢察あるべく候。 日本乞師と長崎警備 335• 筒の残り発射時間が長い程威が上がる。 広島で秀吉と面会した恵理は、その威容と軍備の充実ぶりを目の当たりにし、たちまち忠誠を誓った。 統虎の実父高橋鎮種(紹運) 53• 秋月種実はこの機を逃さず、大友勢が筑後川まで軍を引いたところで、城を発して追撃に向かった。 立花道雪の最期 この後も高橋紹運や宗茂らと共に戦を重ねるが、天正13年(1585年)9月、柳川城攻めの陣中で病に倒れてしまう。 立花家軍旗 立花家史料館蔵• 島津が降伏しないことが分かると、秀吉は大軍を差し向けて九州平定の準備に取り掛かった。

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